沖縄民謡に込められたメッセージ
2018年2月27日
宮沢和史 KAZUFUMI MIYAZAWA
沖縄と出会ったきっかけは?
最初の出会いは民謡ですね。沖縄民謡と出会ってから僕の心の扉が開きました。それまでいろんな音楽を聴いていましたが、沖縄民謡という宝物のような美しい音楽が身近にあることに気付いてから、この音楽の生まれた島ってどんな所なんだろう?どんな人たちがこんな音楽を作っているんだろう?と興味が湧き、沖縄に来るきっかけとなりました。
沖縄に来てから変わったことは?
二十代前半で沖縄に来て、沖縄の歴史や沖縄のことを全く知らないことに恥ずかしい気持ちになりました。もっと沖縄の人のことを知りたい。沖縄の音楽、民謡、芸能を生み出すのは「人間」なので、ウチナーンチュのことをもっと知りたいなという想いから、足しげく沖縄に通うようになり、歴史も勉強するようになりました。それが現在まで続いています。
沖縄の良いところは?
沖縄の人たちはいろんな歴史を乗り越えてきたことを学びました。そういった先人の方々の涙や汗、笑顔などが沖縄芸能の土になって、そこから咲く美しい花の土壌には、いろんなものが染み込んでいるんだろうなと感じました。沖縄の方とお付き合いして良いなと思うのが、一年が年中行事で成り立っていて、旧正月や清明、エイサーの季節などを通して一年が出来上がっており、先祖を敬う気持ちとか、それを子供たちに伝える大人の役割とか、横の線も縦の線もすべてがちゃんと繋がって生きているところです。いろんな大変なことがあって行事も出来ない時期もあったでしょうし、若者が伝統から離れてく時期もあったと思いますが、いろんなことがあった中で、島の誇りを胸に刻み堂々と生きている姿は、とても美しいと感じます。その美しさは人間の美しさですから、僕の故郷でも東京でも見たいと思いますね。
現在のご活動は?
島唄がヒットした後、三線を弾く子供たちが増えたり、世界中で三線に興味を持つ人が増えたと聞きました。それがとても嬉しくて、少し沖縄の力になれたんじゃないかと思っていました。しかしその反面、三線作りに必要な黒木の入手が困難になり、然るべき人のところに材料が届かないことがあると聞き、心がもの凄くかゆくなって痛くなりました。あの歌によってそういう状況を作ってしまったわけですから。そのため、五年ほど前から読谷村で少しずつ黒木の植樹をしています。現在では3,000本ほどの黒木があります。100年後、200年後、300年後に楽器となっていることを夢見ています。
沖縄と芸能の結びつきとは?
それぞれの沖縄の時代を象徴する歌が生まれるのが沖縄の伝統だと思います。それが沖縄民謡、芸能の基本ではないかと感じるんですよね。庶民の目線を記録して、辛いことや悲しいことがあっても絶えずそれを音楽や芸能にしていくのは、とても素晴らしいことだと思います。そういった意味で島唄は90年代前半の沖縄を語るひとつの歌だったのかもしれないですね。その後も名曲がその時代を歌っていると思います。これからも沖縄の状況は変わってくるでしょうし、言うべきメッセージも変わってくると思います。そういう歌を僕自身も作りたいし、曲を作っていろんな人に歌っていただいて、メッセージを届けられたらなって思っています。
ウチナーンチュへのメッセージ
世界中に沖縄出身や県系人の方がいて、各地で伝統を守り、沖縄の年中行事を行う。それはとても凄いことだと思いますし、そういったことでネットワークは繋がるんだと思うんですよね。これからそれを担っていく若い子たちが、かっこいいな、あんな大人になりたいなと感じて大人になってく気がするんです。空手にしてもエイサーにしても、それが途切れないことが沖縄のパワーの源だと思いますし、祖先を敬う気持が太いライン一本で繋がっている。それこそがウチナーの精神だと思います。それをこれからの子供たちも是非引き継いで、また未来へ託して、ずっと絶えないように続いてほしい。僕は民謡が大好きで、ずっと死ぬまで民謡を聴き続けたい。僕が死んだ後も沖縄民謡っていうのはずっとあって欲しいと願っています。